勘亭流の誕生

【江戸歌舞伎の発展】

歌舞伎の歴史と共にその看板の歴史もあり’ここに勘亭流が登場するまでにも変遷があった。
 明和(1764~)から安永(1772~)’続く天明(178~)から寛政(~1800)と江戸の庶民文化は
ひとつの頂点を迎えた。歌舞伎もそのひとつである。庶民文芸が栄え’鑑賞眼の高くなった観客に応えるべく、
役者も作者も工夫をこらした。同時に観客を惹きつける看板も’江戸では浮世絵版画ですでに人気のあった
鳥居清長(とりいきよなが)が鳥居派の四代家元となり、ただの看板という位置ではなくなった。
この時’勘亭流が生まれたのである。
 歌舞伎は天明期には、天明歌舞伎と称されるほどの発展をし、寛政から文化文政(一八〇四〜一八二九)には
上方作者並木五瓶が江戸に下り、写実的な作風で江戸歌舞伎に新風を吹き込んだ。
続く四世鶴屋南北による官能的な脚本、変化舞踊の流行などにより’歌舞伎の隆盛は続いた。
 しかし、天保12年(1841)10月、日本橋堺町中村座と茸屋町市村座が焼失したのを機に、
幕府は天保の改革に乗じて芝居小屋の取り潰しを図る。寄席も古いものを残して取り払い
になったが’芝居は遠山左衛門尉景元(俗にいわれる遠山の金さん)の計らいで江戸三座(市村座・中村座・森田座)
の猿若町への移転で落着した。
 
この猿若町時代を代表する作者が河竹黙阿弥(一八一六〜一八九三)である。世話物(武家社会を描く
時代物に対して、市井に舞台を求める芝居)を多く書き、『青砥稲花紅彩画』(ああとぞうしはなのにしきえ)
通称「白浪五人男」に代表される自浪作者として、清元(浄瑠璃)’竹本(義太夫)’下座音楽を多用して大きな時代を
築いた。
 しかし’明治維新で歌舞伎も江戸のものから改革せざるを得ず、九代目市川団十郎を中心に「改良演劇運動」が
起こる。これと結んだ作家福地桜痴(おうち)によリ、旧態の象徴である勘亭流は草書に変えられるという憂き目を見る。
 以降、歌舞伎そのものも震災や戟争による中断や’粛正という事態が少なからずあり、そのつど役者や興行主は
もとよリ、絵看板も勘亭流も運命をえられていくことになったのである。

 【勘亭流のはじまり】
一般的に広告宣伝物では、書き手が手書きあるいは木版摺りの作品に署名を入れるということは、よほどの大家
として認められた人でないとありえない。

 ことに歌舞伎看板は版画と異なく、興行中のみ使用される、言わば消えものである。
絵師は版画からの慣習とて落款を入れるとしても、書を書いた者がネームバリューを語ることは、
人気を得た初世勘亭以外ほとんどなく、書はあくまでも絵の添え物であった。つまり著名の必要性はまったくなく、
それだけに書き手を判ずるにはさまざまな方向からの検証が必要とされる。歌舞伎界で勘亭流が使われたのは、
台本、俳優の楽屋表示などの、外に向けた宣伝物以外のものと、芝居小屋の表の看板、街頭の宣伝物である
番付(ポスター)などである。文字の大きさは用途に応じて当然変わる。外向けでないものはそこそこ読みやすい大きさ、
看板は大書、番付では、外題は遠目にも映りがよいように太く大きめ、「役人替名(配役)」という場面ごとの配役は細字となる。

 勘亭流が確立したのは安永八年(1779)といわれている。
 当時、猿若町移設前の芝居小屋のあった日本橋堺町あたりに、御家流の書道指南をしていた、
江戸生まれの岡崎屋勘六(1746〜1805)という人がいた。この年、勘六は、同町内にある中村座の
正月の芝居に掛かった『御贔屓年々曾我(ひいきねんわんそが)』の鳥居清長の絵看板に外題を大書した。
これが市中で評判になり、勘六の俳号勘亭からこの書風が「勘亭流」と呼ばれるようになったという。
勘六は中村座の手代だったという話もあるが、そこまでの内々ではなくとも近くに住み、中村座と深く関わり
のある人物だったようだ。

 勘亭流の確立については、この通説を基にして少しずつ異なった説が残されているが、共通項を整理するとこの
くらいの記録しか見られない。口伝えするうちに語り手の思いが加わって諸説が生まれるのはこういうものの常で
あるが、鳥居清長の絵看板に外題を書いたtというところにひとつ大きな意味がある。、

 芝居の広告宣伝において、狂言(演目)の外題や役者の名は、絵よりも大きな要素である。
勘亭流以前の御家流のビラを見ると、最低限の情報に、せめてもの雰囲気をという感じで役者の定紋(家紋)が
配された程度である。そこから、より風情のあるものを求めているうちに、鳥居派の絵が大当たりした。
そして絵の輪郭をとる、力強い強弱のアクセントの線にも似た勘亭流が加わって、看板に歌舞伎らしさが
熟成されたのではないか。
 古い絵番付の狂言の外題を見ると、大入りを願って読めないくらいに隙間なく潰している。読めないということが、
訴求力の弱きとはとらえられず、読めないくらいのものを読むのが「通」であるという特化された価値観による
ものだったのだろう。文字としての伝達機能よりも、シェイプとして心に届くことが優先されている。これは他の
江戸文字にも共通することである。

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